起業には技術的裏付け/実力にプラスして付加価値を生み出す企画力(生産性)、お得意先との人間関係(営業力)、売り上げを含むお金の管理(経営力)、そして複数の人材と手を組んで組織をつくるなら(人材管理)と、さまざまな要素が必要になるでしょうが、はじめからすべてを持ち合わせている人などいません。徐々に必要な要素を身につけたり、用意したりと、それなりの工夫にプラスして時間的な投資も必要です。
なので私がデザイナとしてどう力をつけたかや、起業の経緯を一例として紹介させていただきます。
もちろん私がデザイナとして独立したころと いまでは時代背景も社会情勢も違うので参考にならない部分もあるでしょう。ですが起業を成功させるステップや構成要素にはあまり変化がないのでは?とも感じています。または逆に反面教師として利用するという考え方もあるでしょう。
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はじめて就職したデザイン会社にはちょうど5年間 在籍しました。私自身はデザインスコープ(※1)のあるデザイン会社ならどこでもいいと思っていたので、ハローワークに紹介してもらい、印刷会社が親会社をやっているデザイン会社のサラリーマンデザイナーとして勤めることとなりました。ときに23歳。あまりの給与の安さに家計が成り立たず、仕事が終わってから家庭教師や塾の講師をやっていました。
デザイナとしての仕事ぶりは、かなり優秀な部類に属すると自負しています。1年目に職場にいた先輩の売り上げを抜き、2年目には副業である塾の先生を辞めることができたからです。これは2年目に収入がアップしたからではなく、自分でもデザイナーとしての実力が、メキメキと音を立てて上達しているのがうれしくて、とにかくデザインに集中したかったからです。ふと気づくと残業時間は月あたり200時間を超えていました。出社は毎日 始発と終電。 始発に乗り込んで会社へと出勤したつもりがうっかり眠り込んでしまい電車の車操場で目を醒ましたことさえ、いまでは良い思い出です。通勤にかかる往復所要時間/60分が惜しくて会社の近くに引越しましたが、給与はあがらずじまいでした。
デザインを作り上げていくうえでの仕事効率をあげるため、事務所レイアウトや資料の整理方法も大幅に改善していきました。仕事を担当する幅はますます拡がり、色スケッチ(カラーカンプ)、鉛筆ラフも担当していました。版下(フィニッシュ)だけでなく、外注費を抑えるためにイラストも描いたし、コピーも自分で書いていました。 クライアントが喜ぶ顔、信頼度や評価が目に見えて高まっていくのがうれしくて、企画書もどんどん無料で書いていました。ときには私の凝ったデザインに製版会社から不平がでて、自ら製版作業である写真の切り抜きをやりにいったことさえあります。印刷を手配する営業部のデタラメさ加減に嫌気がさし、上層部に直訴して営業まで任せてもらえるようになり、3年目に入るころにはデザインだけで300万円/月の売上げができるようになっていました。
なぜ私はそこまで猛烈に働いたのか? 理由はカンタンです。
ただただ、もっといいデザインがしたかったからです。
デザインに関する「川上から川下まですべてをチェックする力量」は3年目までに身につけていましたが、私自身は印刷会社だけでなく、代理店にも勝てるさらなる実力を欲していました。それには一番根っこのプランニングから参加できる実力が必要だったのです。 この企画力、プランニング力を身につけるころが一番大変だった気がします。4年目には500万円/月の売り上げができるようになっていました。デザインのみでの売り上げですから ほぼ年間6000万円の純益です。印刷物としての売上高は億に届き、会社は新社屋ビルを建てたけれど私の給与はあがらずじまいでした。
私の書いた企画書が"売り物"になってきたのは4~5年目のこと、おかげさまで充分な実力と自信をつけさせていただきました。
※1/デザインスコープとはトレーススコープ(略称:トレスコ)ともいい、どデカイ写真機みたいなもの。これで原稿を拡大してトレースしたり、描いた原画を縮小してサイズあわせし紙焼きしたりできる。いまの人はデザインもオペレーションもコンピュータでやるが、このころのデザインはすべてが手作業でした。
独立の経緯はあまりにも単純です。
いつまでも給与があがらなすぎるので、あげてくれないなら辞めますと 社長に直談判しにいったからです。
すると社長は「辞めていいよ」とあっさり。「ふーん…」辞めるときには、こんなものなのかぁと思っていると しばらくして会社全体がひっくり返ったように騒ぎ出しました。工場長、デザイン部長、同僚、部下たちからクライアントまでが右往左往。 私の超人的な働きぶりを知らなかったのは社長だけ。道理で給与があがらないはずです。1週間後に、社長から会社近くの喫茶店に呼び出され「あと2年いてくれたら、独立資金を提供するから辞めないでほしい」 と。
このとき私が感じたのは「この社長。小ずるいのか 本当に頭の悪い人かのどちらかだ」でした。
で、「ご厚意は遠慮させていただきます」と断ったら、そこから強烈なイヤがらせがはじまりました。
得意先だったところ、下請けだったところへ 私の独立に少しでも協力したり、仕事を発注したりした業者は閉め出すとのお触れがでたらしい…です。
兵糧攻め?の次は、嫌がらせのような噂。 けれど私の鬼のような仕事ぶりを知っている人たちは誰も信じませんでした。
なかには喜んで取引中止してくださいという会社も多くありましたが、 なるべく波風をたてないように丁重にお断りしました。こんなつまらないことに巻き込むのが忍びなかったから…というのが理由で、協力会社も得意先も一から開拓しました。そうしたかったからというのが当時の気持ちでしたが、よくよく考えると父親の独立時と比較している部分があったのかなぁ…といまになって思います。
独立資金は半年間の生活費を見越して200万円を用意。総額250万円を全額、父に借りました。初月だけは70万円ほどしか売り上げがあがりませんでしたが、 そのあとはずっと150万円を越してイヤというほど利益がでました。なぜならデザインの売上げはほとんど純益だからです。サラリーマンデザイナをしていたころの年収と独立後の月収がほぼ等しくなりはじめたころ、どんなに節税してもかなりの税金を払わねばなりませんでした。 2年目には株式化。車も買い換え、事務所も表通りのビルにお引越。 このころから展示会関連の仕事が急激に増えたことを憶えています。 なぜなら当時、展示会関連の仕事には特別に高い技術が要求されたからです。
独立を考えている人の一番の不安は「組織を出た後でも ちゃんと食べていけるか」につきると思います。
私はもともとグラフィックデザイン出身なので、やはり口コミが一番の味方でした。良い仕事、またそれを理解し、よろこんでくださったお得意さまが一番の営業マンといえるのではないでしょうか。
けれど独立したてで、お得意先が皆無な場合はどうするか? SOHOやフリーランスを目指す人たちの参考になるよう、私の場合は仕事の見つけるのにどう対処し、企画したのかをココに書いておきます。
1.【営業対策】
<まずは顧客の新規獲得>
営業効率を考え、近隣の企業に飛び込んでいくというのも若いうちにしか経験できないので、やっておくのもいいと思います。 やってみれば楽しいだろうなぁ。毎日ずっとはイヤだけど...
<求人雑誌>
求人雑誌にデザイナの求人をかけている会社は、基本的に仕事がこなせないほど忙しいから求人する。だから仕事がたくさんある。…ということで、求人広告をかけているデザイン会社を狙えば確実に仕事がもらえる。 ....と独立前に考えていましたが、私が独立したときにはもう営業する前から仕事があふれて、実行できませんでした。残念!
<電話帳広告(いまならネット対策)>
私自身が電話帳広告をよく利用する人だったので、絶対に広告をのせようと思っていました。
電話帳の広告料金は通話料とともに徴収されますから費用も経費として算出できるため、あまり料金は気にしていませんでした。 でも電話帳広告というのはNTT関連会社の子会社でアルバイトの似非デザイナがつくっているため、デザイナが本気でデザインしたものがそこに入ると、スゴーく目立つ…という事実は、当時あまり知られていない秘策でもあったのです。 ですから独立してスグに電話帳広告を出しました。ところがあまりにもいろいろなところから引き合いがあるので2年目からは電話帳広告そのもの自体を止めました。 ただし、これは25~30年前の話。いまならネット対策の方が大切です。
2.【顧客対策】
<お客様に来ていただける事務所にした/リピーター育成>
マンガ喫茶というもの自体がそのころにはまだ存在していなかった時代に、鉄骨で組んだ天井までの本棚にマンガが800冊、小説などの単行本が約1000冊、美術関連書籍(これが本当に高い!だいたい1万から3万円がザラ、1冊20万円なんて本まであったぐらい)が200冊ほどギッチリと個人蔵書として事務所の壁面に詰まっていましたから、印刷会社の営業マンに大好評でした。 もちろんコーヒー飲み放題です。おどろいたことに自分の会社に出社せず、ウチに直接出勤してくる強者営業マンもいたりして…。
本来、顧客である印刷会社の営業マンは社外でちょっと息抜きができる場所を探している、というのが私の狙い目でした。けれど実際は相乗効果で鉢合わせした営業マン同士の名刺交換がはじまって交流会のようになり、顧客対策以上の効果があり、お得意さまに非常に感謝されました。
3.【価格対策】
<単価・価格帯の問題>
「手形はどんな上得意でもお断り。支払いは銀行振り込みで。 原稿とりに行かないし、納品にも行かない。で、そのぶんをお安く!」
ひとつ間違えれば、なんてわがままな手法なのでしょうが、仕事相手はたいてい営業マンを抱えている印刷・制作会社&代理店・商社だから先方としては少しでも外注コストを抑えたいと願っている部分にマッチして、よろこんでいただけました。
4.【差別化対策】
<同業他社との差異化/付加価値>
手渡すデザインひとつにも1枚のちょっとした説明書きやアドバイスをつけ加えていました。これは営業マンの営業トークを助けるものとして、サービスとしてつけていました。 けれども次第に仕事が忙しくなりすぎ、口答式に…。
営業マン「先方にどう説明したら、気に入られると思う?」
私 「.......っていうふうにアドバイスすると喜ばれるよん」
営業マン「おぉ、そうかそうか。ありがとう、助かるよ」
#この会話が次の「企画書の仕事」や「コンサルタント」として依頼される下地につながっていくのだから、不思議ですよね。
<同業他社との差異化/特殊技術>
まだ25~30年前はデジタルではなかったので、カラーカンプや色スケッチは専門の職人さんが手描きしていました。けれど私には印画紙をカラーに染めわける特殊技術(オリジナル)があったので、まるで印刷そのものみたいなサンプルがつくれました。なので、常にプレゼンで負け知らずでした。
5.【売り上げ・利益の向上】
当時はA4が1点5000円から12000円という相場でした。 単価が安くても制作時間が短くなるよう「たえずカイゼン、カイゼン」していたのでバカほど儲かり、節税のほうが難しかったことを憶えています。たとえばA4が1点1万円を5時間かかって作れば、時間単価は2000円ですが、1時間でつくれば時間単価は1万円! 5時間働けば5万円です。(実際はもっと手が早かった。同業者が見学にくるほど)
#コスト意識、スピードと完成度に関しては子どものときからイヤというほど父親にたたき込まれていたことが大きかったと思います。10才のころから1秒を惜しむ生産哲学を仕込まれたからで、それにプラスして私は両手が利き手。左利きを幼稚園で直されてからずっと両手効きで、一部のクライアントの方からは千手デザイナとの異名をいただくほどでした。
6.【社員教育】
これは当時、まだ高価だったビデオを導入していたことが有利に働きました。
社員教育として、私が制作する動きをスロー再生してみせていたのですが、これは私自身の勉強になることも沢山ありました。
ここに記した6つの項目は、あくまでもあの時代の そして私の場合であって、絶対的な成功手法ではありませんのでご注意を…。
ぜひ、参考程度にご利用ください。